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デヴィ夫人若い頃が美しすぎて大統領夫人になれたってホント?

デヴィ夫人若い頃 芸能人

歯に絹着せない語り口調やブログの発言が共感を呼び、テレビで見ない日は無いデヴィ夫人です。

若い頃は美しすぎるほどの美貌で、大統領夫人になれた?とのうわさもあるほどです。

貧しさと闘い、努力した若い頃、それでも美しさを保ち続け、セレブにまで上り詰めた凄まじい精神力の謎を、若い頃のエピソードから少しづつ解き明かして行きましょう。

デヴィ夫人プロフィール


本名:Ratna Sari Devi Sukarno(ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ)

日本名:根本七保子(ネモトナオコ)

国籍:インドネシア

生年月日:83歳

出生地:日本 東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)

身長:159cm

血液型:A型

最終学歴:東京都立三田高等学校定時制過程中退

現在の仕事:NPO法人アースエイドソサエティ理事長、株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役、タレント、2019年7月10日よりYouTube「デヴィ夫人-Lady Devi Channel」スタート。

デヴィ夫人の貧しかった生い立ちから、若い頃どうやって大統領夫人の座を射止めたかをご紹介します。

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デヴィ夫人の生い立ち

デヴィ夫人は第二次世界大戦が始まってすぐ、1940年2月6日、現在の東京西麻布に生まれました。

大工の棟梁の父(浜七郎さん)母(政子さん)そして弟(八曾男さん)との4人家族でした。

悲しいことに、生まれて初めて知った感情が「恐怖」だったと語ります。

というのも、青山墓地の防空壕に親子で避難したこと、戦争末期、東京大空襲の前に、お父さんを一人残して、お母さんと弟さんの3人で行った福島の疎開先で、途轍もないひもじさを経験したこと…

そして戻った東京の焼け野原を目の当たりにして、母と弟は絶対に自分が守るんだと、幼いながら小さな胸に誓ったそうです。

運よく家は焼けずに残っていましたが、足の悪いお母さんに代わって買い出しに行ったり、一生懸命に働きました。

今の華やかなデヴィ夫人からはとても想像ができませんね。

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デヴィ夫人若い頃ハーフみたい

デヴィ夫人は日本人離れした美しいお顔と名前のため、「ハーフでは?」とのうわさがあります。

しかし、デヴィ夫人の結婚前の名前は「根本七保子(ねもとなおこ)」さんという純粋な日本人です。

実はお父さんもお母さんも、若い頃かなりのハンサムと美人さんでしたから、二人の良いとこ採りであの美貌が生まれたんでしょうね。

結婚後、そして現在のフルネームは「Ratna Sari Devi Sukarno(ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ)」といいます。

インドネシアのSukarno 元大統領に見初められての衝撃的な結婚をし、第3夫人となったのです。

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デヴィ夫人の若い頃きれい!

デヴィ夫人の若い頃の写真がバラエティ番組で紹介され、視聴者やネットでも話題になりました。

現在の女性アイドル達とは全く異なり、とても20代とは思えない雰囲気でかわいいというよりは綺麗、妖艶という言葉がピッタリで、ちょっと近寄りがたい美しさです。

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デヴィ夫人の若い頃は貧しかった

デヴィ夫人の父、浜七郎さんは大工の棟梁をされていましたが、そのお人好しが災いし、かなりの借金がありました。

そんな貧しさから抜け出そうと15歳の時、デヴィ夫人は女優になることを決意し、東芸プロダクションに入り、演技や舞踊を学び始めます。

エキストラではありましたが映画やテレビに出演し、少しずつ収入を得るようになりました。

しかしエキストラでは満足な収入が得られるわけはなく、定時制高校に通いながら千代田生命保険会社に入社して、お昼のわずかな休憩時間や土日にも、喫茶店でアルバイトをして家計を支えていました。

この気力と体力には圧倒されてしまいます。

16歳の時にお父さんが亡くなり、家計はさらに苦しさを増してゆきました。

デヴィ夫人は弟さんを学校に通わせるために定時制高校を中退します。

この頃から心身ともに強さと潔さをお持ちだったんですね。

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デヴィ夫人は若い頃から勉強が好きだった

終戦後、米軍駐屯地の側で育ったデヴィ夫人は、米兵達の話す言葉に憧れて、外国人のペンフレンドと手紙をやり取りできるくらい英語を猛勉強するようになり、中学では英語の成績はいつも一番でした。

この時すでにその美しさは注目され、ヘップバーンのようだと評判になっていました。

そして憧れは英語だけにとどまらず、世界文学に夢中になり、たくさんの本を読み、物語のヒロインになりきって想像の世界に浸るようにもなります。

後の社交界での洗練された振る舞いは、この時のこのヒロイン達から学んだのです。

女優を目指す片鱗もこの辺りから生まれていたのでしょうね。

今も個展を開くほど美しい絵を描くことはよく知られていますが、幼い頃から絵を描くことが大好きで、”天才だ、天才だ”と言われて育ち、自分でも画家になると思っていました。

お母さんはそんなデヴィ夫人のために内職をして、芸大の絵の先生をつけてくれました。

しかしある日お母さんが先生に月謝を待ってくれるように頭を下げる姿を見て、自分のためにこんな思いはさせられないと、絵を諦めます。

そして女優を目指すことになるのです。

この頃から、いつか世界に羽ばたき、光り輝く存在になりたいと夢を抱き始めていたデヴィ夫人は、「人の3倍勉強し、働き、努力して、睡眠は人の3分の1」という信条を今も変わらず持ち続けています。

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デヴィ夫人若い頃プリンセスと呼ばれた

17歳の時、ジェイムス・ベイカーさんという宝石商をされていたお金持ちのアメリカ人と知り合い、赤坂の有名な高級クラブ「コパカバーナ」に出入りするようになります。

するとコパカバーナのマダム、長尾久子さんにいたく気に入られ、なんとホステスとして働くようになりました。

当時から美しかったデヴィ夫人ですから、あっという間に人気者になり「プリンセス」と呼ばれるようにり、100人を超えるホステスの中で、ナンバー1にまで上り詰めたのです。

どんな分野にもどんな場所にも必ず一つ、足跡を残すところがデヴィ夫人の凄いところですね。

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デヴィ夫人は若い頃コールガールだった?

デヴィ夫人は赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」という日本随一の社交場で働いていました。

コールガールやホステスだったと勘違いされることがありますが、ここは高級社交場。

普通の飲み屋とは全く違う場所です。

というのもコパカバーナはお客様のほとんどが外国人で、海外のVIP、政財界の大物や要人が多かった外国人セレブご用達のサパークラブです。

超・超・超高級クラブといったところでしょうか。

世界に羽ばたきたいという夢を持つデヴィ夫人は、いつかきっと自分にもチャンスが訪れると信じて、英語はもちろんのこと、日本舞踊やダンス、生け花、茶道などを習得したのです。

コールガールなんて、低俗な事を言ったらデヴィ夫人は烈火のごとく怒ること間違いありません!

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大統領夫人になれたワケ

デヴィ夫人とスカルノ大統領との出会いです。

19歳のとき。スカルノ大統領がプライベートで日本を訪れていた際、夫人が友人と映画を観に行くため待ち合わせ場所に居た所に大統領一行が偶然通りかかり、見初められて「一緒にどうぞ」と声が掛かったという。

日刊スポーツ

デヴィ夫人に偶然出会ったインドネシアのスカルノ大統領はたちまち一目惚れをしてしまったのですね。

そして出会ってから3か月後にインドネシアに招待されるのです。

その頃二人の富豪からプロポーズを受けていたデヴィ夫人は、家族を1日も早く楽にしてあげたいと思い、女優の夢を諦めて結婚に応じようかと悩んでいました。

けれども世界に羽ばたきたいという夢を抱き続けていたデヴィ夫人は、スカルノ大統領の招待を受けることを決めます。

訪れたインドネシアでは、たくさんの国民から愛される大統領の姿を見て、深く感銘を受けました。

そんな幸せな日々を過ごすデヴィ夫人の元に、悲しい知らせが舞い込みます。

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デヴィ夫人が大統領夫人だったころ辛すぎる事件が!


元々体の弱かったお母さんは、娘のデヴィ夫人が大統領夫人となったことでマスコミの取材攻勢に会い、心労のため亡くなってしまいました。

さらにその二日後、続けて弟さんがお母さんの死のショックと、友人に騙されたことから自ら命を経ってしまったのです。

失意の中、もう家族のためではなく自分のために生きるのだとを強く思いました。

間も無く「私のインスピレーション、根源、人生の喜びとなってください」と、100年生きても聞くことができないような、途轍もなく美しいプロポーズを受けたデヴィ夫人は、自分は大統領に選ばれたんだと胸を熱くし、大統領をお支えしようと決意しました。

そしてRatna Sari Devi Sukarno(ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ)「宝石の精の女神」という名前を授けられ、大統領から最も寵愛を受けた、第3夫人となって、インドネシア国籍を取得します。

微笑ましくも珍しいエピソードとして、夫婦喧嘩はしたことがなく、意味がわからないわというデヴィ夫人ですが、ただ一度だけ、ある将軍が味方なのか、それとも逆賊なのかで意見が分かれたことがありました。

その時は大変なファイトになったと笑って振り返ります。

やはりスケールが違いますね。

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デヴィ夫人って何をした人?

幼少期の貧しさを乗り越えて、学び、働き、努力して掴んだ大統領夫人という地位は、後にも先にもデヴィ夫人ただ一人です。

今やテレビで見ない日が無いほどの活躍ぶりですね。

スカルノ大統領が亡くなり、亡命先のフランスから一人でインドネシアに戻ったデヴィ夫人は、大統領の遺産を元に石油関連事業に投資、見事に成功させました。

その後ニューヨークに渡り、国連環境計画で特別顧問をしたこともあります。

芸術文化の支援や慈善事業にも力を注いでおり、世界のアーティストを支援する「イブラ国際音楽財団」を設立し、会長を務めています。

また、NPO法人アースエイドソサエティを設立し、収益金は寄付や寄贈をするなど、思いは常に世界に向けられてきました。

昨今の社会情勢もあり、難民支援に関しても精力的に活動し、また犬好きでも知られるデヴィ夫人は動物愛護活動も盛んに行っています。

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デヴィ夫人子供は?

一人娘「Karitika Sari Devi Sukarno(カリナ・サリ・デヴィ・スカルノ)」さんは1967年3月11日生まれで、お母さんに似てとても美しく、一時は確執も伝えられましたが、デヴィ夫人のYouTubeにもチラッと、酔った勢いで出演されたり、現在では姉妹のように仲の良い親子です。

2005年、オランダ人のエリート銀行マン、フレッツ・フレデリック・ゼーガースさんと結婚し、キラン君という、男の子を授かりました。

イケメンですね!

カリナさんはTVジャーナリストや広告代理店、またインドネシアの子供達のために教育支援目的の財団を立ち上げるなど、精力的に活動し、2008年スラカルタ王宮からナイトの称号を得ています。

この行動力はやはりご両親のDNAなのでしょう。

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デヴィ夫人の娘も美人で玉の輿

カリナさんはフレッツ・フレデリック・ゼーガースさんと2005年12月2日に結婚しました。

結婚当時、フレッツさんはシティバンクヨーロッパの社長をされていましたから、かなりのエリート銀行マンと言えますね。

ご夫婦はとても仲睦まじかったようですが、ご主人のフレッツさんは2021年、インドネシアのバリ島で、インスリンショックによる心停止のため、62歳で急逝されてしまいました。

フレッツさんとの間にはキラン君という息子さんがいます。

大きくなったキラン君、長身でなかなかのイケメンぶりです。

お父さんの分までカリナさんを支えてあげて欲しいですね。

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デヴィ夫人なぜ亡命した?

スカルノ大統領との衝撃的な結婚から3年後の1965年、インドネシアでの軍事クーデターによって、スカルノ大統領は失脚し、デヴィ夫人は一人娘のカリナさんと一緒にフランスに亡命することになります。

実はこの時、当初大使館に日本への亡命を願い出ますが断られてしまっていたのです。

大統領夫人ではなくなったと実感したのは赤い絨毯でした。

今まで飛行機でどこの国、どこの地域に行っても、タラップを降りると足元には赤いカーペットが敷かれ、その上を優雅に歩いて笑顔を振りまいていました。

ですが大統領失脚の後、そのカーペットは姿を消してしまったのです。

もう自分は大統領夫人ではないんだなと実感させらた出来事でした。

そんなデヴィ夫人でしたが亡命したフランス、パリの社交界でもその美しさは評判となり「東洋の真珠」と称えられて、王侯貴族をはじめ、たくさんの著名人と交流を持つことになりました。

そうして10年ほど過ごしていましたが、スカルノ大統領が亡くなったことを受けて、一度は自分も死を考えたのですが、一人娘のため生きることを選びます。

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デヴィ夫人の元気な秘けつは?

いつも優雅な物腰やセレブな装いのデヴィ夫人ですが、バラエティ番組などでは社交ダンスやスキー、スキューバダイビングから、果てはプロレスまで、見ているこちらがびっくりするようなジャンルにまで本当に楽しそうに挑戦されています。

芸人さんも舌を巻くほど体をはって挑戦し、目にしたあらゆる物事に好奇心を持って挑まれていますね。

その元気の秘訣は一体何なのでしょう。

夜はパーティなどで、どうしてもカロリーの高い食事が多いので、昼間は和食をメインに糖質を控え、体型を維持されています。

仕事も遊びも精一杯楽しみながら、常に新しいことにチャレンジする気持ちを忘れないことが一番なのだと語ります。

『日々を生活しているのではなく、毎日を生きているのよ』

この考え方、生き方こそが元気の秘訣、そして美しさの源なのではないでしょうか。

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デヴィ夫人は何か国語話せる?

幼い頃から英語を猛勉強されており、英語は堪能です。

大統領との結婚で第3夫人となり、インドネシア語も習得しました。

さらには亡命し、社交界でたくさんのセレブと交流されたパリではフランス語、そしてもちろん母国語である日本語を含めて、4ヶ国語、スペイン語も少々お話できるということです。

これだけ各国で活躍されていますから、ひょっとしてカタコトも含めれば、もっと多くの言語もお話できるのかもしれませんね。

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まとめ

デヴィ夫人が大統領夫人になれたのは、若い頃の美しさで一目ぼれされただけでなく、磨きをかけた内面もあったからとわかりました。

若い頃の美しさと、その裏に秘められた激動の人生、さらに現在の独特のユーモア溢れる活動をご紹介しました。

これからもキラキラと、挑戦し続けるデヴィ夫人を応援して行きたいです。