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ビートたけし若い頃はイケメンで色気も!ハリウッド映画にも出演!

ビートたけし若い頃イケメン 芸能人
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ビートたけしさんといえば、昭和・平成・令和を通じて第一線で活躍している数少ないタレントです。

芸人だけでなく世界的に有名な映画監督で、しかも若い頃イケメンでハリウッドに進出したこともあります。

しかし、事故でイケメンだった顔が激変した歴史もあります。

そんなビートたけしさんの若い頃のイケメンの歴史と波乱万丈な人生を紐解いて行きましょう。

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ビートたけし若い頃イケメン

成績優秀、運動もでき、算数と図画工作が得意なおばあちゃん子で、小中高と野球部、高校ではヨネクラジムでボクシングを習っていました。

高3の夏休みに一日12時間の猛勉強の末、明治大学工学部機械工学科へ入学したものの、適応できず除籍となってしまいました。

そして19歳の時に、家賃7500円3畳1間、風呂なしトイレ共同で一人暮らしを始めます。

その後はジャズ喫茶のボーイ、菓子の量り売り、実演販売員、ビルの解体工、タクシー運転手、ガソリンスタンド店員などを経験し、空港荷物上げ下ろしバイトでは、もめ事に強くなり鍛えられました。

あの時は出世の見込みとかなかった。

文学は馴染めないけど演芸ならいけるんじゃないか。

とバイト時代を振り返っています。

最初から芸人を目指していたのではなく、試行錯誤して将来を模索していたとは、一気に親近感が湧きますね。

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ビートたけし大学中退して勘当された!

お金は盗られたらそれまで、教育はどんなに人が盗ろうと思ってもとれるものじゃないから、というのが母親北野さきさんの教育に対する考え方で、子供たちに教育の機会を与えるため昼夜働き続けました。

お前なんか子供じゃない、二度と帰ってくるなと退学すると告げた息子に投げかけた言葉です。

生まれて初めての反抗で、母の期待を裏切ってしまいます。

でも母は見放したわけではありません、除籍になるまで6年間授業料を払い続け、下宿の大家には滞納したら私に請求してとずっと見守り続けたのです。

そんな母さきさんはビートたけしさんが売れると、金の無心をするようになり、因業ばばあとビートたけしさんは怒ったのですが、亡くなる2年前にそのお金が自分名義の通帳に全額入っていることを知らされます。

晩年、骨粗鬆症を患った母親に、スチールを埋める手術を進めたが痛くて歩けない結果となり、火葬後、お骨を拾う際にスチールが出て来て、それを見たビートたけしさんは泣き崩れたのです。

母親には敵わねえ 30過ぎまで親を許せないやつはバカだと語るようになります。

ビートたけしさんとさきさんに限らず、親の心子知らずなんですね、身につまされます。

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ビートたけしツービート時代(1970年)

下積みは浅草フランス座でのエレベーターボーイから始まり、深見千三郎さんに弟子入りしコント芸人になりました。

この頃はフランス座で住み込みで働き、ストリッパーのお姉さん達から可愛がられたそうです。

お坊ちゃま感満載ですよね。

しかし、日給1000円のフランス座では食えないので、兼子二郎さん(ビートきよし)から漫才に誘われツービートを結成、テレビでの活躍を目指します。

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ビートたけし爆売れ時代(1979~1981年)

1979年女性漫才師の松田幹子と結婚、9月父の死を経て漫才ブームに乗ります。

この頃はコマネチ!のギャグで一世風靡し、毒ガス標語で漫才ブームの先頭に立ちます。

  • 「赤信号みんなで渡れば怖くない」
  • 「注意一秒けが一生、車に飛び込め元気な子」
  • 「人はねた、あの快感がたまらない」
  • 「気にするな、どうせ人の子 嫁いびり」

などをスピード感満載でまくし立てていました。

「ツービートのわっ毒ガスだ」は85万部を売り上げ、印税全て二人が受け取る契約で一気に金回りが良くなります。

この頃の髪型がおぼっちゃまと言われていて、毒舌だったので好感度を意識したのか、それとも優しい髪型の人が毒を吐くギャップが良いと考えたのか色々想像しちゃいますね。

ただ、この頃はツービートに限らず個性的な髪型や服装の時代で、古い漫才スタイルを変えるのも、この漫才ブームの特徴でした。

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ビートたけし単独でレギュラー番組絶好調

1982年漫才ブームも終わり、ビートたけしさんは司会業に軸足を移します。

1985年にはレギュラー番組のうち20時台番組のすべてで最高視聴率を記録し、ほとんどが、本人の企画・構成のものであるという偉業を成し遂げます。

ビートたけしさんが一番好きな番組が、お笑いウルトラクイズです。

売れない芸人をテレビに出してやるという思いから始まり、もっともビートたけしさんらしい番組で、今では到底製作することはできない危険度MAXな番組です。

でも、この番組からダチョウ俱楽部さん、出川哲朗さん、松村邦洋さん、ナイナイの岡村隆史さんに光が当たり人気者になっていきます。

若手がボケて転倒してケガをしないようなセットになっているか、クギが出ていたり床に不自然なひっかかりがないかを細かくチェックしてくれたと弟子のダンカンさんが語っています。

おぼっちゃまの髪型からおでこを出す髪型に変え、映画やドラマの役のイメージに近づきます。

毒舌というイメージを残しつつ、豊富な知識で文化人的な仕事もおこない、本も多数出版していますが、多忙のため口述したものをライターが文章におこしていると話しています。

  • 「たけしくん、ハイ」
  • 「浅草キッド」
  • 「菊次郎とさき」
  • 「バカ論」
  • 「間抜けの構造」ほか

絵本「ほしのはなし」など多数ありますが、映画と同様にジャンルや仕事内容で名前を使い分けています。

才能が溢れてこぼれ落ちそうなビートたけしさん、周りにはたくさんの人がいて、同時に色々な事が進行している超多忙な日々、普通の人なら3日でダウンしそうです。

でもビートたけしさんは、浮つかず、受けようが受けまいが別にいい、冷めた感じと近くにいた人の話があります。

一喜一憂しない、大事ですね。

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ビートたけし若い頃モテた?!

芸人になると打ち明けた彼女とは7年付き合うが、喫茶店でお茶する以上は進展せず、奥手でした。

彼女がいたときに他の女性から誘惑されるが、断るくらいな純愛体質であるというエピソードが残っています。

人気者になってからは、本人曰く金遣いと女癖の悪さが爆発したと語るように常に女性の影がありました。

純愛体質の一方で破滅的な毒舌、ビートたけしさんの魅力に振り回されてしまいます。

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ビートたけし若い頃の事件

大学除籍から下積み時代を経て漫才ブームに乗り、ハリウッドデビューまで順風満帆でしたが、大きな事件、事故にみまわれます。

フライデー襲撃

1986年12月9日、ビートたけしさんはたけし軍団11人とフライデー発行元の講談社を襲撃しました。

不倫相手の21歳女性をフライデー記者が執拗に追いかけ、暴行を受けたことに怒り我慢できずに行った狼藉です。

消火器を噴射し、傘で殴ったりしました、最初は一発殴って終わりにしようと思っていたが、そうはなりませんでした。

結果逮捕され、懲役6か月執行猶予2年の判決を受け謹慎となりました。

この事件について母さきさんは、あんなどうしようもないのは、死刑にでもしてください。と答えています。

どこかにまだ悪戯っ子が残っていたビートたけしさん、あーあ、やっちゃたーが世間の素直な感想でした。

事故で顔面麻痺

1994年8月2日酒気帯び運転のビートたけしさんは、新宿区安鎮坂でカーブ曲がり切れずガードレールの鉄柱に激突しました。

4m飛ばされたとか、女性タレントに会いに行ったとか、事故現場は血の海で発見時はスクーターの上でいびきをかいていたなどの噂がありました。

ほとんど記憶がない、事故は自分の不注意で、うつだった。

頭蓋骨陥没骨折で生死を彷徨っていた時、夢で逸見政孝と会い、まだ死んじゃいけないと思った。

と後述しています。

退院時は、顔面麻痺で会見し大きな衝撃を与えました。

どうせ、マスコミに追われるなら見せてしまえで、麻痺の顔を晒したビートたけしさん、ショッキングであり、もう復帰は無理と誰もが思いました。

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若い頃のファッション

下積み時代は、コンビでタキシードだったが、人気が出ると自由なファッションで舞台に上がるようになります。

たけしニット

たけしニットとは、ビートたけしさんが元気が出るテレビで着用していたニットのことで、派手な色味の幾何学模様が特徴です。

このニットは高価でドン小西がデザインしたブランドものでありました。

このニットを着るには体力がいる。高視聴率の時や、仕事がのっている時に着るのは楽だけど、精神的に疲れている時は着るのがつらい、自分が潰されるようで と語っています。

ものまねの松村邦洋さんが、いつも同じ姿でテレビに出ているのを見かねて、このニットを200枚プレゼントしました。

自分のものまねをする松村邦洋さんが、可愛いしもっとおもしろくなれという愛が感じられます。

イッセイミヤケからクレーム

漫才ブームの頃はイッセイミヤケの服を着ていましたが、三宅から服を着ないでくれとクレームが入ってネタにもしていました。

俺は客だぞ、着るぞ、ガタガタ言うと買うぞ、お金を包むから脱いでくれって言うまで着てやる。

イッセイミヤケの広報から直電話で

なるべく着ないでください。イメージくずれるから

と言われたそうで、もうネタだか宣伝なのかわからなくなりますね。

そんなビートたけしさん、自身でブランドを立ち上げました。

ブランド名はキタノブルー、コマネチのシャツもあります。

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ビートたけし若い頃の映画

映画は空港のバイトで知り合った縁で端役から始まりましたが、主演も務めるようになります。

1995年公開のハリウッド映画「JM」ではキアヌリーブスと日米イケメン共演しています。

主演作品

  • 「戦場のメリークリスマス」
  • 「バトルロワイアル」
  • 「御法度」
  • 「JM」など

監督・脚本

  • 「その男、凶暴につき」
  • 「キッズ・リターン」
  • 「HANA-BI」
  • 「菊次郎の夏」
  • 「アウトレイジシリーズ」など

特に「HANA-BI」ではヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を取るなど高い評価を得ます。

「浅草キッド」はビートたけしさんの自伝的小説で、師匠の深見千三郎との日々が描かれています。過去にテレビ朝日・スカパーでドラマ化されています。

今回はネットフリックスでの映画化で、ビートたけしさんは関わっていないものの大泉洋と柳楽優弥のダブル主演と監督が劇団ひとりということで、大きな話題となりました。

ビートたけしさんはこの映画について次のように語っています。

なんかやっぱり恥ずかしいから飛ばし飛ばしで見ちゃってさ、やっぱり自分のことだから恥ずかしいからさ、飛ばし飛ばしで、でもタップのところかな、タップのところだけは見たな、あれはよく練習しているな。

漫才は上手くないけどね、あとは全部上手い、タップも上手かった。

でも実際は悲惨だったんだよ、自分も泣いたけどキレイになってる、映画らしくなっている。

ひょうきん族収録中に師匠の訃報が入り、茫然とするビートたけしさん、いつしか俯いてタップダンスを踊り始めました。

破門は許されていたものの、まだ恩返しができたはず、もっとなにかできたはず、やりきれない悲しみと無念さが伝わります。

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コマネチに200万円支払う!

2011年、ビートたけしさんはルーマニアの元体操選手ナディア・コマネチさんと初めて対面することになります。

ギャグができてから31年、当時は共産圏の壁もあり会うことはできず、近年お互い存在は知っていました。

両者とも波乱万丈の人生を歩んだ故か、場所は違えど同じ時代を駆け抜けた戦友のような、安堵に似たほのぼのとした空気感が伝わります。

ちなみに、ビートたけしさんはコマネチさんに対し肖像権使用料として200万円支払ったそうですよ。

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ビートたけし若い頃まとめ

70歳を過ぎてもお笑いライブを開催し、タップやピアノの練習もしているビートたけしさん、もう後期高齢者の仲間入りです。

若い頃はイケメンでモテモテ、やらかしも色々ありましたね。

いたずら小僧のイケメンから時代を代表するイケメンに、まだまだ活躍し続けるビートたけしさんから目が離せません。

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